□ 農業を変える鍵はビジネス
農業が衰退産業になってしまった大きな要因は、農業がビジネスとして 実践されてこなかったことにあります。農業を産業として自立させるためには、ビジネスとしての農業の実践を広めること、そのためには、経営体(経営者)の育成が急務だと考えます。
□ 有機農業にはチャンスがある
昨今の環境意識の向上や食品の安全性を揺るがす事件などの影響により、有機農産物への興味関心は非常に高まっています。しかしながら日本ではまだまだ有機農産物は一般的とはいえません。だからこそ、ビックビジネスチャンスなのです。
□ 今必要なことは既成概念の払拭とパートナーシップ
「農業は専門的で難しい」と思われがちです。しかし、この考えこそが農業の産業として成長を阻害している最大の要因です。農業を特別視せず製造業として捉えた時、農業の産業(ビジネス)としての可能性が見えてきます。
私・武内智はもともと外食畑に長く携わってきた人間でした。それが素晴らしい有機農業者たちに出会うことによって、彼らの人柄に惹かれ、有機農業の深い世界に魅せられ、自ら農場を経営するまでになり、今では日本の有機農業の推進と発展に情熱を注いでおります。2人の大切な友人との出会いを通して、私のこれまでの軌跡とこれからの有機農業に対する考えを簡単にここに紹介させていただきます。
● 有機農業の「いろは」を教えてくれた村上さん
私が初めて出会った有機農業者が、北海道美瑛町の村上和男さんです。当社の出資者の1人でもあり、私が最も信頼する高い技術を持った有機農業者です。今も、村上さんがつくる農産物が、私の有機農産物の品質基準です。
1989年に横浜の中華レストラン聘珍樓グループの「平成フードサービス」を立ち上げた時、おいしいメロンを探してあちこちに問い合わせして辿りついたのが、北海道美瑛町の村上和男さんでした。当初市場から仕入れた北海道メロンは品質が安定せず、いくつかの農協を当たるもどこ取引してくれず困っていたところに、北海道の仲間から美瑛町を紹介されました。当時の美瑛町議会議長がたまたまた私の知り合いだったのです。
しかし、美瑛町農協は「供託金を積まないと取引できない」という姿勢でした。すると、当時農協の理事だった村上さんが「俺がやる、自分でリスクを取ってやる」と言ってくれたのです。村上さんは美瑛町唯一の有機農業者で、メロン、アスパラ、ジャガイモ、トウモロコシ、カボチャなど、私が欲しいと思っていた野菜を有機栽培で作っておられました。村上さんが栽培指導する彼の仲間たちと一緒に、有機農産物の取引を開始したのが1990年2月のことです。
村上さんはジャガイモを見ただけで、たとえば「これは空洞だ」とわかる、まるで人間光センサーのような人です。村上さんと出会って初めて、有機農業と一般(慣行)農業の違いを知りました。
ある時、畑で村上さんに、「ジャガイモの葉の色が(慣行栽培とは)違うでしょう?」と言われ、よく見てみれば、確かにいつも見ているジャガイモの葉の色よりも淡いことに気付きました。「葉の色が濃いのは、硝酸態窒素の濃度が高い」と、村上さん。その時は意味がよくわからなかったのですが、後で調べて窒素肥料(硝酸態窒素)の過剰投与がもたらす地下水などへの環境汚染や、農産物の葉への残留が人間の健康被害を引き起こすことがわかりました。
以降、美瑛町に頻繁に通うようになり、村上さんに有機農業とは何か、その「いろは」を教えていただきました。村上さんとの出会いが、その後の私の“有機農業人生”の分岐点となりました。
有機農産物といえばバラバラで品質が悪かった当時から、村上さんの農産物は市場をはじめどこに出しても評価が高く、外部に販売できるレベルでした。今でも村上さんの農産物は、価格が高くても皆さん欲しがります。バイヤーは必ず村上さんのところへ連れていきます。村上さんの農産物を見せたいのと、村上さんに会わせたいからです。
● 農業のバックボーンをつくってくれた諸橋さん
私の有機農産物の第2の取引先が、群馬県倉淵村で平成元年から農業を営んでいた故・諸橋正行さんでした。彼との取引から量・額もぐんと増えました。村上さんとの出会いで有機農業のことが少しわかるようになり、諸橋さんとの出会いが私をいまの道に進めたといっても過言ではありません。
諸橋さんとは、1995年の秋、ある展示会で知り合いました。最初の印象は「変わった農家だな」と思ったのですが(笑)、聞けば私と同い年。日本ダウケミカルの研究員としてアメリカで勤務していましたが、帰国後、自分の進むべき道を悩み、群馬県倉渕村のクラインガルテン(市民農園)に行く機会があり、そこで倉渕村が気に入って地元農家の協力を得て農場を拓いたとのことでした。きっと、化学とは対極のものをやりたかったのだろうと思います。
その後さっそく諸橋さんを倉渕村に訪ねました。諸橋さんの自宅であるログハウスに行くと、周辺の農家が大勢集まってきていました。彼は、倉渕村、軽井沢町一体の農家をネットワークしていました。これを機に諸橋さんとは急激に親しくなり、毎月1回倉渕村に通うようになり、平成フードサービスの社員を連れて定期的に農業研修にもおじゃましました。諸橋さんは有機農業を化学的に分析しており、堆肥とは何かというところから丁寧に教えてくれました。そして、ある時、諸橋さんから「農家へしょっちゅう通ってもしょせん客でしかない。ホントに農業がわかりたいのならば自分で農場を始めたら?」と言われたのです。
それから1カ月しないうち、諸橋さんから農地が見つかったとの連絡があり、山林の農地転用、測量から造成など諸橋さんの地元の仲間がみんなで協力してくれたおかげで農場を持つことができました。しかし、ここで初めて農地法にぶつかりました。最終的には農業法人設立のハードルが高く、諸橋さんの個人名で転用して耕作する形になりました。実際の運営は平成フードサービスでした。いわゆる企業の農業参入の走りです。このときの失敗と経験が、現在、他社の農業参入へのアドバイスに大変役立っています。
諸橋さんがいなければ、自ら農業をやろうとは思わなかったと思います。当時は怖いもの知らずで、農業なんてそんなに難しいものだと思わず、やってしまいました(笑)。
● 誰もが有機農産物を手に入れられる世界を
諸橋さんと知り合って農場をつくった1996年に、1992年雪印の農業サロンの会に呼ばれたのを機に知り合った道内の有機農業者たちの1人、北海道・標津町の興農ファームの本田廣一さんを諸橋さんに紹介しました。2人は意気投合し、ならば3人で有機農業を広げる活動をしようと立ち上げたのがJOHF(Japan Organic Heart Farmers-Food-Family)です。誰もが有機農産物を手に入れられる世界を目指し、有機農業の情報と技術を共有して、有機農業を広げるための組織です。3人で全国を行脚して、仲間の生産者を募り、協力者を探していきました。諸橋さんに、有機農業者への技術指導など研修を担当してもらいました。そうして、現在の有機農業者のネットワークができあがってきました。
JOHFでは各有機農業者が持っている技術の情報交換を行っています。技術情報は開示すべきです。慣行栽培の農産物に比べると有機農産物は収量が落ちますので、単価も高くなります。単価を低く抑えるには、収量を上げて物流費を下げるしかない。収量を上げる技術がなければ生産者の手取りも増えません。そのためには、断根技術に加え、アミノ酸肥料を使用することを数年前から進めてきました。いい技術はみんなで共有することです。
諸橋さんは、現在の私の農業のバックボーンをつくってくれた人であり、私の親友でした。彼と一緒に営業にもずいぶん行きました。今お付き合いのある有機農産物を販売されている流通関係の皆さんは、当時知り合った方々です。諸橋さんは、残念ながら2002年にガンのため他界、その遺志を継いで倉淵村の彼の農場をワタミファームとして経営してきました。
● 有機農業者を増やしていくために必要なこと
有機農業者を増やすために、最も必要なのは各生産者が「経営力」をつけることです。新規就農しても数年でダメになる人が多いのは、もとの経営の設計が間違っているからです。企業の農業への新規参入も同じです。1haの農地で300万円の売上で、夫婦2人の生活に加えアルバイトを養うという計画が成り立つわけがない。大事なのは、経営と技術のバランスをとっていくこと。経営が成り立つような作物体系、事業計画がないままでは、収支の予測すら立てられない。それらを就農前に、身に付けておくべきです。腕のいいコックにレストラン経営ができない人が多いのと同じことです。経営はある意味、センスです。今後、当社では、事業計画のつくり方を学ぶような研修も強化していきます。
また、平成フードサービス副社長時代から今日まで、取引する有機農業者の農産物は全量を買い上げてきました。慣行栽培から有機栽培に変えるとしばらくは収量が急激に落ちます。土ができて収量・作物の品質が安定するまでの「転換期」の間に公的な支援があれば、本当に助かります。あるいは有機JAS認定の検査認証費用を国が助成するような支援策が望まれます。
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